前から気になっていたこれについて調べてみたので、メモっときます。
古代には、陸奥国府・多賀城の外港(国府津; こうづ)として、塩竈津(塩釜港)が発展した。塩竈津は、松島湾内の南部に位置する現在の塩竈市にあり、歌枕となるのみならず、陸奥国一の宮・鹽竈神社などが置かれ、この地域の重要な港であった。
11世紀以後、多賀城が西の現仙台市宮城野区岩切にある奥大道と冠屋川(または冠川。現在の七北田川)の交点付近左岸に移転して「多賀国府」(たがのこう)と呼ばれるようになった考えられ、松島丘陵を超えて達する塩竈津よりは、冠屋川の河口港である湊浜が外港の地位を得たと考えられている(現在の七北田川は仙台市宮城野区蒲生に河口があるが、冠屋川は七ヶ浜町内の湊浜に河口があった)。奥大道と冠屋川の交点右岸には河原宿五日市場(陸路による集荷)、そこからやや下流左岸には冠屋市場(河川交通による集荷)という定期市が鎌倉時代には開かれており、両者を合わせて六斎市の様相を呈していた。このように、多賀国府周辺には都市的な様相があり、陸奥国府としての機能がなくなる南北朝時代以降も上町・下町として、戦国時代でも多賀国府町(たがのこうまち)として存続し、外港も維持されたと考えられる。
安土桃山時代になると、伊達政宗が現在の宮城県・大崎地方の岩出山城にその本拠を移した。すると、塩釜港と内水系とのネットワーク化を考えた政宗の命により、仙台湾沿いに阿武隈川河口から松島湾・塩釜港に到る全長31.5kmにおよぶ運河が開削された。仙台湾(広義)は、波の荒い仙台湾(狭義)と、波の静かな松島湾および石巻湾に分かれるが、この運河は波の荒い仙台湾(狭義)の部分に造られており、川船のまま塩釜港に至ることが出来るようになった。この開削工事は1597年から1661年にまでおよび、この間に政宗は岩出山城から仙台城(1600年建設開始)に移って、城下町・仙台を開いた。運河の途中には、仙台城下に到る名取川(広瀬川)や七北田川も各々の河口近くで交差しており、塩釜港は、伊達藩の城下町・仙台の外港として発展することとなる。この運河は、明治時代に大幅に拡張され、伊達政宗の諡「貞山公」に因んで 「貞山堀」、または 「貞山運河」 と呼ばれるようになった。
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